夏の終わり

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飛鳥了は何故、不動明を愛したのか?〜デビルマンから観る、セカイへの抵抗〜

✳︎2万字程度(20分程で読めます)

1/9 価値観がアップデートされたので、改めて編集し直しました。気になることがあればコメントお願いします。

「サタン様。あなたの狙い通りです。あなたの人間作戦が成功したのです。二年前、氷の世界から蘇ったあなたは、人間を知るために人間になると言われた。それがこれほど早く人間を滅ぼすことになろうとは。」

(中略)

「ただ、この作戦のただ一つの誤算は、あなたが...人間、不動明を愛してしまったこと!勇者アモンを犠牲にしてまで不動明をデーモンの世界で生きられることを願ったこと!」

「それは...私が...両性生物だったから。」

「そのために私は多くの部下を失った。さらに恐るべきデビルマン軍団と戦わねばならなくなった!」

「明..戦いたくない...」

不動明と戦わずにすむ方法はないのですか?サタン様。」

「ない!明の性格はわかっている。彼は...私と戦わずにはいられない!!」

永井豪ダイナミックプロ.『画業50周年愛蔵版 デビルマン5巻』.小学館.2018.p185-187)

 

これは「デビルマン」の主人公、不動明の親友であった黒幕、飛鳥了と彼の配下が交わした会話だ。作中で、何故デビルマン不動明)が生まれてしまったのかが、明らかにされる重要な場面である。

 

デビルマン」は1972年に連載、放送された永井豪原作の漫画とアニメだ。漫画家、永井豪を不動の地位に押し上げた作品だと言える。多くのメディアミックスがされ、2018年には原作をリメイクした「DEVILMAN crybaby」がNetflixで配信された。連載から45年を経た今尚進化し、拡散され続ける名作である。ところで、「デビルマン」のアニメと漫画は設定は同じだが、内容は大きく異なっていることをしっているだろうか?

 

アニメは不動明の体を乗っ取った、悪魔族の勇士デビルマンとヒロイン、牧村美樹を中心に描かれる。美樹を愛し、彼女を守るために悪魔族の裏切り者として戦う一話完結の物語になっている

だが、原作は悲劇的な内容だ。

 

原作では、人間を守るために悪魔と合体してデビルマンになった青年、不動明と親友、飛鳥了の愛憎劇が描かれる。

簡単なあらすじとしては、平凡な学生だった主人公の不動明は、ある日親友の飛鳥了から協力を頼まれる。地球の先住民族、恐ろしい悪魔(デーモン)がこの世に復活するというのだ。了に協力し、デビルマンになった明は悪魔ハンターとして日々を過ごす。

 

だが、終盤で了の裏切りによりヒロイン、牧村美樹が人間の手にかかり殺される。愛する美樹を殺された明は人間を見限り、了と最終戦争を決意する。最後は人間が死に絶えた地球で、息絶えた明の横に座り込み、了が己の所業を懺悔するという異様な結末になっている。

 

 なぜなら、了が明をデビルマンにしたのは冒頭で引用した文にあるように、ホモソーシャル*1な関係とは別に、彼のことを愛してしまったからだ。

当時、アニメで放送された正義のヒーロー像とは異なり、原作の壮大であまりにも人間的な悲劇は、その終わり故にエヴァンゲリオン*2に思想的な影響を与えるなどの「デビルマン」以後の後世の作品に絶大な影響を与えた。

私は、この物語を読み終え、ふと思った。

何故、飛鳥了は愛したのだろうか?

そこに、意味や理由はあったのだろうか?

そこで作者、永井豪と原作「デビルマン」の物語構成を改めて見直すと、一つの疑問が浮かび上がった。永井豪の想像力は21世紀に生まれた想像力

セカイ系」ではないか?

 

突然「セカイ系」と言われてもピンとこない人が多いと思うので説明しよう。セカイ系とは2000年代に生まれた物語の類型の一つである。主人公と周囲の人間関係が「世界の危機」といった大きな物語と結びついている想像力を意味している。そこには、社会や国家、間に存在しているはずの機能が抜け落ちているという大きな特色がある。セカイ系の特徴的な構図については、下記の引用をみてもらおう。

 

この構図は、現代思想の世界でよく使われるラカン精神分析の用語を借りれば、「想像界現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」という表現で定式化できます。

(中略)

その三者は厳密には定義がむずかしいのですが、ここでは「象徴界」とは社会の公共的な約束事や常識、「想像界」とは恋人や家族など親密圏内部での幻想の世界、「現実界」とはそういう常識も夢もともに壊すリアルなもの、ぐらいに押さえておけば大丈夫です。

東浩紀.「セカイからもっと近くに(現実から切り離された文学の諸問題)」.東京創元社.2013.p19〜20)

 セカイ系とは現実界と想像力の距離が短絡し、象徴界が抜け落ちている作品をいうのだ。

例を挙げると、新海誠の「星の声*3高橋しんの「最終兵器彼女*4が挙げられる。

 まとめると、主人公達の身近な環境(大抵の場合は恋愛相手などの人間関係)と世界の危機(国家が滅亡するなどの事態)しか描かれていないのだ。

現実なら、その問題に対応した社会や国家の対策がとられるはずなのにセカイ系」に関しては、むしろ「社会」は物語として不要となっている。

 

かつて文化は社会を反映させる機能をしていた。だが、戦後になるにつれ政治と民衆は分断されはじめ、サブカルチャーはただの「娯楽」、「ストレスの解消」に成り果てた。そこには「社会」や、「現実の反映」は無く、空虚な自意識だけがあるというふうに「セカイ系」が揶揄のフレーズとして用いられていたこともある。

 

 永井は、現代のオタク文化の基礎を築いた1人でもあるので、1970年代に想像力で2000年代の「セカイ系」の作品を描いていても不思議ではない。

 それに、永井の初期の作品では、現実界想像界が接近しすぎてしまい、その結果、現実界が大きく変容する「セカイ系」の片鱗がみてとれる。永井の最初のヒット作「ハレンチ学園」の主要人物が次々と死ぬ場面が主に挙げられる。ハレンチ学園について後に解説する。)そのように考えると、デビルマンはまさに「セカイ系」の作品構造をしている。

 

明、美樹、飛鳥が存在する 想像界

デーモン族が復活する事態が 現実界

社会の動向はマクロな視点で描かれていて、どちらかというと翻弄された人間の強行が目立つ。それさえも想像界を強化する役割となっているので、事実上の社会の機能を果たしていない。デビルマンは確かに「セカイ系」的作品だったのだ。だがここで、私は幾つかの疑問を感じた。

 

それは飛鳥了の存在だ

アニメでは、飛鳥了は全くでてこない。何故なら、飛鳥了は主人公をデビルマンにする案内役のためだけに演出されたキャラクターで、物語に関わりのない存在だったのだ。

 

先ほど述べたように「デビルマン」は「変身ヒーローもの」企画として漫画とアニメが共通の設定を元に企画された。漫画「デビルマン」は原作者、永井豪が手がけ、アニメは東映動画で制作された。近年、放送されている漫画のアニメ化という形ではなく、基本設定が同一な異なる作品として存在するのだ。

 

そうすると、約1ヶ月先に漫画が連載されたので、アニメに飛鳥了の存在がないことは、基本設定上当然と言える。アニメには尺の都合があるので、効率よく物語を進めるには不必要な要素を省く必要があるからだ。予定通り、原作の序盤で飛鳥了は死に、アニメの方では飛鳥の存在はそもそもないものとして企画された。

 

 だが、のちに永井は、物語のリアリティを構成するのに不可欠な要素が飛鳥であったことに気づき、原作の作品世界を再構築し、飛鳥を復活させたのだ。この復活が原因で「デビルマン」の漫画とアニメは別々の作品として派生し、違う結末を迎えた。これは、飛鳥了というキャラクターが漫画とアニメの分岐点となったといえるのではないか。永井豪自身は、この時の出来事を自伝で、キャラクターが動き出したと説明している。

 

驚いたことに飛鳥了は、さらに僕の予想を超えて、今度は狂気に走り出した。もともと「デビルマン」という作品では、登場するキャラクターはそう多くない。主要なキャラクターは、不動明飛鳥了、それに明の恋人の美樹ちゃんの三人だけだ。だから、飛鳥了の成長もまた、ストーリーを広げていく上で必要な要素だったのだ。(中略)おかしいな、と思い始めたのは、連載も終盤に差し掛かってからだった。どうも、物語をリードしているのは、主人公の不動明ではなく、飛鳥了のような気がしてきたのだ。(中略)しかし、まさか彼がサタンになろうとは、途中まで作者である僕も、全く考えていなかった。

永井豪.『デビルマンは誰なのか』.講談社.2004.p37-38)

私はここで、1つの仮説を考えた。すなわち、

デビルマン」とは、飛鳥了が存在することでしか成立しない物語なのでは?

何故なら、永井は自身のリアリティを作品に反映せざるにはいられない漫画家であるからだ。永井作品に、頻繁に登場する性と死のモチーフがその証明だ。それに、「セカイ系」の物語を描きたいだけであれば、明と美樹の恋愛で成立したはずだ。現に、同設定のアニメ「デビルマン」では明と美樹で物語が成立している。

 

ここで、重要なのは永井が、にもかかわらず「セカイ系」の物語を描けなかったということだ。セカイ系」の材料にぴったりの要素がありながら、永井は作品から消えた存在にリアルを見出した。つまり、永井は、社会を描けない「セカイ系」によく似た想像力を持ちながら、「セカイ系」への抵抗を示しているといえる。

 

永井は何故、飛鳥了を生みだしたのだろうか。

 ここでは、飛鳥了というキャラクターが何故生まれたのか。その問いを中心に「セカイ系」の想像力に永井豪が、どのような抵抗をしているのか。その想像力について考察する。

 

ここで書く「抵抗」は永井自身も無意識なのだろう。実際、彼は物語の終わりを設定しない作者として有名で、作品自体も読者の反応を見て制作するスタイルをとっている。だから、この文章自体、言ってしまえば作品の深読みにしかならないのかもしれない。

 

だが、永井の「デビルマン」以後の作品で度々「デビルマン」のキャラクターが登場し、元の作品世界を吸収する出来事は「デビルマン」という作品自体が、永井が作品を作るために必要な措置だとしか考えられない*5

 

セカイ系的な言葉でいうと、永井は想像界現実界の間に、象徴界の代わりとして飛鳥了というキャラクターを繋げたのではないか?言い換えれば、飛鳥了こそが、デビルマン」における社会=(永井にとってのリアリティ)だったのではないか?

 

それが作者自身、無自覚だったにせよ、飛鳥了というキャラクターを生みだした永井な想像力こそ、私は調べる価値があると思っている。

 

 全ての表象される虚構は必ず作者自身のリアリティに何かしらの形で依拠している。永井は「デビルマン」で、飛鳥了を通して、どのようなリアリティを描きたかったのだろうか。そして、それはすなわちこのように言い換えることができる。

何故、飛鳥了は作者の思考を超えてまで、明を愛したのだろうか。

 

 

第1章 デビルマンから読み解くセカイ

この章では、永井が開発したオタク的セクシュアリティを読み解き、性の観点からデビルマンのアニメと漫画を対比する。その対比で生まれた課題を、社会が書けないセカイ系の構図と対比させて、章の最後には要点としてまとめる

 1. 永井豪とは

 

 永井豪は1945年に石川県で生まれた。子供の頃から漫画化を目指していて、高校卒業後に石ノ森章太郎のアシスタントになる。漫画を描く技術と速さはこの時期に養われ、後にこの経験が、週刊連載5本の非常に多作な漫画家としての功績を生むことになる。1967年にギャグ漫画「目隠しポリ吉」でデビューし、以後デビルマンマジンガーZキューティーハニーなどのヒット作を連発し、手塚以降の漫画家として挙げられる存在となった。

 

 永井の作風は非常に過激な性描写と、バイオレンスな表現が特徴的だ。既存の常識を覆す作品や権力批判にも富んでいる。その作風は永井が生まれた時代と大きく関係している。

 

 彼が、戦争終結直後に生まれことも関係しているが、何より永井は1960年から1970年にかけての時代の変化を経験している。デビルマンが生まれた年でもある1970年代は太平洋戦争の生々しい傷跡が未だに残り、学生運動が不発に終わった時代だ。社会の改革が実現せず、政治と民衆の分裂が始まった時代でもある。

 

その社会情勢の中で、永井は1970年代に「ガクエン退屈男」という学生運動から着想を得た漫画を描いている。その漫画に出てくる主人公が、実は自分自身の「殺したいから殺す」という欲望を満たしたいがために、学生運動を興じている側面がある。学生運動という社会情勢と、人間への皮肉が込められた永井特有の観点がデビューして数年でみられる。また、永井が当時の周囲の漫画化について語った言葉からもその傾向が反映される。

「僕がデビューした当時、手塚治虫先生たちのSF作品には明るい未来があふれていた。でも僕は人間なんて環境によってどうでも変わるのであり、追い詰つめられたら何をやるか分からないと考えていた。」

永井豪.『デビルマンは誰なのか』.講談社.2004.p51)


 永井と同年代にデビューしたジョージ秋山銭ゲバ「アシュラ」など人間の善悪を問う作品を発表し、世間の注目を浴びた。また、異彩をあまた輩出した「月刊漫画ガロ」もこの時期に創刊した。
時代的出来事としては、同人のプロデビューを掲げ、漫画同人誌に大きな影響を与えた漫画雑誌「COM」の存在。


そして、1975年に第1回コミックマーケットが開催したことが挙げられる。
 1970年代はセカイ系の生まれる土壌、サブカルチャーの台頭とともに、政治への関心が急速に薄くなっていった。作品が社会を反映しない空気が既にこの時代から発生してきたのだ。その代わりに人間の業という領域を切り開いた漫画家が生まれた時代でもあった。

 

それで、ここではサブカルチャーの文脈における「おたくのセクシュアリティ」について本文の研究に役立つと考え記載する。この「おたくのセクシュアリティ観念は斎藤環が2006年に出版した「戦闘美少女の精神分析」から引用している。

 

まず、同書に書かれているおたくの定義を記載する。

 

  1. 進化した視覚を持つ
  2. 高性能のレファレンス能力を持つ
  3. 飽くなき向上心と自己顕示欲

 

この定義は同書に引用されている岡田斗司夫の「オタク学入門太田出版.1996)から引用した。

精神医学用語に「二重見当識」というものがある。これは統合失調症の患者などに見られるとされるもので、例えば「自分は東京都知事だ、資産数十兆円だ」と言った妄想を語りながら、看護スタッフの指示で病棟の掃除を手伝ったりしているような事態を指している。いかに重症の妄想型分裂患者といえども、妄想の立場と患者の立場とは区別できることが多い。自分の立場の理解を見当識と言い、こういう患者は二重見当識を持つ、と言われる。これまで、見てきたように、おたくはさまざまな虚構コンテクスト間を自在にジャンプし、また受け手の立場から製作する立場にやすやすと入れ替わることができる。つまりおたくは、「二重」ならぬ「多重見当識」を持つと比喩的にいうことができる。

斎藤環.『戦闘美少女の精神分析』.筑摩書房.2006.p53)

 

すなわちオタクとは様々なジャンル間を、視点を柔軟に切り替えて活動することができる共同体の集まりなのだ。

 

そして、この多重見当識はオタクのセクシュアリティにおいても機能される。虚構のキャラクターが欲望の対象とされることがそれを証明している。(例 恋愛ゲーム、やおいなど)そしてその欲望は、いわゆるアニメのヒロインが性的嗜好であるが、現実では生身の人間の女性で我慢するということではない。オタクは自分のセクシュアリティにおいても「欲望の見当識」を切り替えられるのだ。

 

つまり、想像界においては倒錯的だが、現実では普通の異性愛者として日常生活を送れるということである。そして、その「倒錯」への「性の虚構化」の手続きが虚構のキャラクターを通して行われているのである。「おたくのセクシュアリティとは、このように欲望の見当識を切り替えられるセクシュアリティである。

 

 永井の場合はセクシュアリティの虚構化に「少女」を重視している。初期の作品から反復されている、戦う美少女からその傾向が見られる。そして、ほとんどの場合それらのエロスはセックスに至らないエロス。あまりにも虚構としてのエロスであり、それ故に現在のオタク文化に多大な影響を与えたのだ。

 

 永井作品にみられるセクシュアリティ特有の特徴として、永井は「男」と「女」を性の領域でしかみていない。語弊のある表現だが、性の欲望を満たすコードの役割をキャラクターが担っているのだ。

確かに彼は、戦う美少女などのアイコンに影響を与えたが、その背後に存在するのはフェミニスト的観点ではなく(女性の地位向上などの目的)あまりにも露骨な欲望の対象のセクシュアリティだ。

 

 永井がもたらした「戦闘美少女」の代表作、後年の「キューティーハニー」は変身シーンで美少女の全裸を描き、明確に「少女」を意識した作品となった。だが、間違いなく永井作品には「女」が「女」に、「男」が「男」に欲情し、性的行為をする場面が多く存在する。そして、欲情される「男」、「女」達は一様に美しい顔=「少女」の記号を持っている。それを踏まえて、永井が性の領域でしかキャラクターを捉えられないということは、逆説的に永井作品の欲望は性が解放された環境だからこそ、飛鳥了のような両性生物の特徴を持つキャラクターが生まれたと解釈できる。

 

デビルマン」で性に関する問題は、漫画とアニメを比較すると重要なポイントとしてでてくる。

それでは両者を詳しくおってみよう。

 

 2. アニメと原作のデビルマン

 

  • アニメ

 デーモンの王、ゼノンは人間世界を征服するため、人間界に刺客を放つ。偶然その場に居た少年、不動明は刺客の1人デビルマンに命を奪われる。明の体を宿り主にしたデビルマンは人間界に潜入する。

 ところが、人間界に降り立ったデビルマンは人間、牧村美樹に恋をする。それは、デビルマンが人間側についたことを意味し、美樹を守り抜くためにデビルマンはデーモン族と戦う。

最終回では、悪魔族最強の戦士ゴッドマンと闘う。最強の敵を倒したデビルマンは人間の姿に戻り、美樹をオートバイの後ろに乗せて走る。

物語はいつものように幸福な2人の姿を描いて終わる。

 

アニメでは1970年代を代表する脚本家、辻真先が担当した。辻真先デビルマンについて語る際

デビルマン」は敵前逃亡であると表現している。

戦争で戦うよりも好きな女の子を守るために一生懸命になる方が何より素晴らしいことだとも答えている。

 

 この言葉は、辻真先自身の太平洋戦争の敗戦を経た経験が込められている。彼は学生の頃に、鬼畜米兵、御国のために命を捧げろと言っていた大人達が敗戦の知らせを聞き、手の平を返して、アメリカの味方をする様子を目の当たりにして、人間不信に陥った経験がある。出身地が名古屋で学徒動員に忠実な地域だったのも関係している。

 

そして、辻の思想を反映し、デビルマンは決してヒーロー物にありがちな大義名分のために戦わない。彼が戦うのは個人的な理由。または自分の恋人のためだ。アニメのエンディングでは人の世を守りたいと歌っておきながら、デビルマンが愛しているのは美樹だけにすぎない。以下のセリフから、共同体が掲げる正義よりも、自分で得た正義の方が何より価値があるという辻のメッセージが伝わってくる。

 

「人間がなんだ、デーモンがなんだ、美樹に比べりゃカスみたいなもんさ」

 

また、辻は重要なことも言及している。アニメ「デビルマン」は最終的に必ず死ぬ終わり方らしい。どういう意味なのだろうか。

 

 これはデビルマンの最終回39話での作品の根本を揺るがす出来事と関係がある。そのシーンはゴッドマンとの戦いの中、デビルマンは美樹に正体が悪魔だとばれてしまうのだ。だが、美樹はその事実を否認し、はっきりとデビルマンを「化け物」と認める。つまり、両者の間に明確に種族の違いがひかれているのだ。

 

これはセックスの不可能性という暗示で捉えることができる。


しかも、アニメのデビルマン不動明を殺して体を乗っ取った。いわゆる漫画のデビルマン(体は悪魔、心は人間)とは異なり、完全な悪魔なのだ。いかに愛を知り、人間に近くなったとはいえ悪魔であることには変わりがないのだ。(人間)不動明は存在しないのだ。加えて、その決定的な事実を知らない美樹のラストシーンで言うセリフ。

 

「どんな姿になったって中身は明くんのままじゃない」

 

ここには両者に、決して分かり合えない溝が存在する。美樹はデビルマンのことを人間の明くんだと思っている。だが、デビルマンは自分が『明くん』を殺して、彼に成りすましている悪魔だということを告白しない。そして、背景には2人の行く末に無数のデーモンが群れをなしている。デビルマンは必ず死ぬと言う解説を踏まえて、最後のラストシーンを見てみると、2人の行く末は破滅という暗示にとれる。

 

仮初の姿を愛する美樹と、美樹を愛しながら決して結ばれないデビルマン彼は最後に自分の正義を守って玉砕するのだろう。物語は仮初の幸せを描いて終わる。

 

 

  • 原作

原作では、親友の了に協力して、デビルマンになった明は悪魔ハンターとして日々を過ごす。デビルマンとは、人間の心を持ちながら悪魔の力を持った存在を指すのだ。終盤で、デーモンの頂点、サタンの記憶を取り戻した了の裏切りによりヒロイン、牧村美樹が人間の手にかかり殺される。愛する美樹を殺された明は、了と最終戦争を決意し、長年にも続く殺し合いをする。最後は人間が死に絶えた地球で、息絶えた明の横に座り込み、了が己の所業を懺悔する。

 

遠い昔に神が地球を滅ぼそうとしたこと。地球に生まれた悪魔を守るために反逆したこと。生命を、地球を守りたかっただけだったこと。神に勝ったこと。傷を癒すために眠りにつき、目覚めた時には人間たちが繁栄していたこと。…自分が生命を懸けて守った地球を汚され、許せなかったこと…だけど、それは神が自分たちに行った殺戮と同じことだった。一生懸命に生きている命を奪うことを許せなかったから神に反逆したのに、結局私は同じことを人間にしていた。私が間違っていた。私を許してくれ。悔悟の涙を流す了の背後から、全てを無に還す神の軍団が到来し、物語は終わる。

 

3.デビルマン世界の対比 

 

永井はキャラクターを性のリアリティで描いている。すると、こうは考えられないだろうか。

不動明牧村美樹は、初めから不能な関係にある。そこから脱却するために生まれたのが飛鳥了だと。

 

 何故こう考えるのか。「デビルマン」を巡る2つの作品には、性に関する明らかな違いが存在するからだ。

 

アニメでは「仮初の幸せ」に留まり続ける世界

原作では「仮初の幸せ」が壊されて、全てが消滅する世界。「仮初の幸せ」とは、明が本当の欲望を押さえつけることで成立する。本当の欲望とは、美樹とセックスをして子供を作ることだ。

つまり「生殖」が不能世界を開く鍵となる。

 

 

ここから3つの世界線が考えられる。

何度も記載するが、デビルマン」の原作とアニメは、共通の基本設定で描かれた2つの作品なのだ。

以下2点が、共通の基本設定となる

「悪魔がヒーローの作品」

・「愛と安らぎのある人間界を見つけたために悪魔族を裏切った」

*6

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○A(アニメ)

アニメの世界では「恋愛」が裏切りの動機である

◯B(原作のデビルマン

原作の世界では、明は誰も裏切っていない。

(明と合体したデーモン、勇士アモンは裏切っていない。なぜなら、了が合体を手引きしたからだ。了は明がより強いデビルマンになるようアモンを仕向けた。)サタン側にとってアモンを失うことは痛手であり、デビルマンは強敵となる。

原作の世界で「恋愛」が動機で裏切ったのは了である。

◯C(原作で了のいないデビルマン

原作で了のいない世界では、誰も裏切っていない。

基本設定が存在しない世界となる。

 

ここで先述した黒色の「生殖」のレイヤーを通す。

 

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3つの世界は不能性に留まりつづけているといって過言ではない。

 

デビルマンになった時点で人間とは異なる肉体になるからだ。種族が違うため、セックスして子供を作ることができない。デビルマンになったら生殖の不能の問題が生まれる。この生殖の問題は両性生物の了にも当てはまる。

 

それはなぜだろうか?

原作で了は、自分は両性生物だから明に惹かれたと解答している。つまり、性的な意味で明に惹かれたと解答しているのだ。(✳︎両性=男女の性とはあえて捉えない。両性具有と明言される以上、男女の性とは別の話になるからだ。例.女の部分があったから惹かれた〜。男の部分(ゲイだったから)惹かれた〜。ということではない。そのままの意味、両性生物だったから(不動明だったから)惹かれたというだけである。

 

そして明に対しては、自分は一緒に戦ってほしいから君をデビルマンにしたと思っていたが、本当は一緒に生きて欲しいからだったと言う。明に執拗に人間なんか見捨てて自分と生きろと話している。

 

しかも、自分の本来の目的(地球から人間を消す)をおざなりにして、明に対し君が生きていることが人間の証明になると、なだめるかのような説得をする。(本来の目的の放棄)そして、心の奥底では人間=美樹に対する苛立ちを抱えている。なぜか明に対して、周りくどい手段をとっているのだ。

 

これは了自身、自分の本当の欲望が分かっていないととれる。明に素直に思いを告げて恋仲になるか、すっぱり諦め、親友のポジションを守り続けるか。だが、そういったことができず曖昧な発言を繰り返す。つまり飛鳥了自身が根本に(アイデンティティ)の問題を抱えていた。アイデンティティの確立をしていないため「生殖」に踏み切れていない。だが、明と共に新しいせかいを生きるという目的は明確であった。

 

飛鳥は自分と同じ、不能性を持つ生物にすることで逆説的に明を不能性から脱出させようとしたのだ。

 

蛇足だが、ロマンアルバム4「デビルマン」p78-p79の質問コーナーで、永井豪が明と美樹の子供に関する発言をしているのだ。

デビルマンは明の体を乗っ取った時に、人間不動明の生物学的情報を吸収しているので結婚は可能だが、その子供となると難しいのではないか。だが、おそらくデーモン族と人間の2つの能力を変え揃えた子供になるのではないか、という内容だ。

すると、2人は「生殖」が可能な関係となる。それでは、ここで展開したデビルマンの生殖の不能性について証明することができない。だが、このレポートで追及している問題は、永井が「セカイ系」、そのような想像力を持ちながら、実際の作品世界に、「生殖」のモチーフを落とし込めなかったことだ。

 

そして、「デビルマン」の不能性の捉え方を原作に当てはめてみると、興味深い見方ができる。

 

 飛鳥了の望みは明と共に新しい世界を生きることだ。そのために明とデーモンを合体させ、新しい世界に順応できるよう手助けをした。その明と了の関係を、男と女の関係に見立てることもできる。だが、了は両性生物なので、明を生かすために自分と同じ状態にすることに決めた。(1番強いデーモン族の戦士を犠牲にして)了自身は、自分の本当の願望が分からないという問題がある。けれど、新しい世界に明と共に生きるということだけがはっきりしている。

 

だが、明と美樹は両思いだ。明はデビルマンになった時点で種族が違うので結ばれることができない。

了自身も天使であるため、明とセックスができるのかは不明だ。(種族が違うため。作中ではサタンは神に反逆して堕天した天使とされている。彼自身も自分を両性生物と話していることから、天使は生物の一種として捉えることができる。)

 

だが、了の場合は明と共に、新しい世界を生きることができる。いつまでも不能性の中に留まり続ける明と美樹に怒り、美樹を殺すが(美樹=明にとっての現実)であることから明が自己統一のすべを失い、戦争が始まる。最後は、神の到来により何もかもが無に帰る。新しい世界を共に生きることさえできなくなってしまった。そのように考えると、最後の明の下半身が無くなり殺されているシーンも生殖の不可能性を意味しているように思われる。

 

つまり、デビルマンという作品世界では

明、美樹、了の間に生殖にまつわる問題があった。

そして、生殖こそが「デビルマン」で描かれる象徴界の試みだったのだ。不能性から脱出するために、飛鳥了を登場させたがその試みも無駄となってしまった。

 

原作「デビルマン」は不能世界から脱出を試みた飛鳥了の失敗の物語なのだ。

 

アニメと漫画、それぞれが、まるで作者自身からお前たちは不能性から永遠に抜け出せないと告げているかのような作品となっている。

 

ここで私はある種同じような終わり方をした同作者の最初のヒット作「ハレンチ学園」を思い出した。

ハレンチ学園は初めはギャグ漫画であったが、後半からは学園戦争が勃発し最後は主要キャラの大体が死ぬという結末になっている。ハレンチ学園」は漫画家、永井の「エッチなギャグ漫画家」というイメージを深く浸透させ、「スカートめくり」を当時の小中学校で大流行させた。

 

 また少年漫画にしては過激な性描写と、教師への権力批判を描き、社会問題とまでなった。特にPTAや教師から俗悪な漫画を描いたとして、作者自身への苦情が殺到した。そこでPTAやマスコミからの誹謗中傷が強くなるにつれて、この状態を逆手に取り、第1部後半では「ハレンチ大戦争」と題するハレンチ学園と「大日本教育センター」の教育関係者たちとの戦争に突入した。この批判派(既存権力側)対漫画派(子供や若者)の対決は敵、味方もなくただただ死んでいくという激しい構図を生む。ここには永井の権力への痛烈な皮肉と、マスコミへの怒りが描かれている。そして、最後には全てが無くなって終わる。「デビルマン」の終わりを想起させる構造になっている。永井はこの終わりを描いた時点で、「ハレンチ学園」という作品世界の終わりと答えている。

 

ここで重要なのは、永井の作品には虚構によって現実が改変されるという契機がみられることだ。主な登場人物が頻繁に死ぬことにその描写が描かれている。冒頭でも述べたが「セカイ系」への兆候が見られるのだ。

 

閉鎖空間の学校の中が「現実界

成長過程でおとずれる性の目覚めが「想像界

膨れ上がった「象徴界」が大日本教育センターの比喩ではないか?

 

 

永井は膨らみすぎた物語を全て、無にすることでしか「セカイ系」 に対する答えを持っていない作家だったのだろうか。社会が描けないなら、全てぶち壊してしまえ、それが永井の答えだったのだろうか。いや、その答えを出す前に、永井の原点について引用しておこう。

 

それは、永井が18歳の頃、自分が癌だと勘違いした経験からきている。結果、冷たいものを食べすぎた大腸カタルだったのだが、永井の運命を決める出来事であった。

 

その間に僕は、自分はもうすぐ死んでしまうのだと、信じ込んでしまった。

そう思ったら、急に家族とも距離を感じるようになった。家族と仲良く食事をしていても、自分だけが透明なドームの中にいるような、家族との間に透明な膜かバリアーがあるような、そんな感覚だった。そして、自分は(個)なんだ、孤独なんだという、強烈な疎外感に襲われた。もう、仲の良かった兄弟とも、心が通わなくなるんじゃないかと思えた。死の恐怖より、この疎外感、孤独感のほうが僕にはこたえた。

死ぬということは、僕にとっては、全宇宙が消滅することだった。家族や友人など、仲のいい人々と別れなくてはならない。それだけでなく、物でも、何でも、全てのものとも別れなくてはならないのだ。

(中略)

生きていることが一番重要で、それ以外のことは全部些細なことだと分かった。僕は、自分がここに生きていたぞという証拠を、死ぬまでに何としても残そうと決意した。それはもう、壁をガリガリと引っ掻き、爪痕だけでも残したいというような思いだった。考えてみれば、この世に自分が生きてきた痕跡を残したいというのが、人間の最大の欲なんじゃないかと思えた。

(中略)

もし生き延びることができたら、絶対に漫画家になって、自分の生きてきた証拠をたくさん残そう。

僕は、ものすごく強い決心をした。

永井豪.「豪 波乱万丈痛快自伝エッセイ」講談社.2004.p44-46)

 

後に記す、永井が生み出したキャラクターデータベースは、この経験なくして存在しない。なぜなら永井作品に反復される性と死のモチーフはこの時の永井が受けた「外傷」だからだ。「外傷」は反復することでより強化される。永井の作品が多作で多様なのは、漫画を通して自分の「外傷」を反復しているからとは考えられないだろうか?

 

「家族との間に透明な膜かバリアーがあるような、そんな感覚だった。」は、解離として捉えることができる。防衛機制の一つに解離という症例がある。人間は自我が耐えられないほどのショックを受けると、自我を守るために現実と自分が解離して存在するように感じられる。解離はトラウマと密接な関係にある。解離は外傷が存在したからこそ発生した現象だからだ。

 

 永井の作品を描く行為がそもそもの「トラウマの克服」だとしたら、漫画を描くたびに「外傷」の反復が行われている。強烈なまでの「外傷」を前に、セカイは反映せざるにえない。そこには永井のそれこそ「壁をガリガリと引っ掻き、爪痕だけでも残したいというような思い」が存在しているのだから。

 

ここまでで、要点を幾つかまとめよう。

  • (原作)デビルマンは「不能世界から脱出を試みた飛鳥了の失敗の物語」だった。
  • 飛鳥のいないデビルマンはいずれも不能性に留まり続ける。
  • 永井が活躍した1970年代はサブカルチャーの形成期だった。現代に至る「おたく」特有のセクシュアリティに影響を与えたことは間違いない。
  • 永井が漫画を描く行為は「トラウマの克服」だとすると、「不能性から抜け出せない」モチーフを描くことで結局、全ては無駄。私たちがどう生きたところで、どうせ死ぬから意味がない。そのようなリアリティを持っていたのだろうか。

 

第2章 セカイ系の困難に永井がだした答え

第2章では、永井がこれまで描いてきた作品の中から、永井にとってのリアリティを探し出す。そして、要点を章の最後にまとめる。

1.バイオレンスジャックと永井のリアリティ

 

永井の作品、そのリアルとはなんなのか。

そこには、キャラクターとの密接な関係が存在する。ここで、キャラクターの定義をしておこう。

ここでの、キャラクターの定義は東浩紀の著書から引用する。

(僕は)現代のキャラクターの本質を「メタ物語性」に求めています。

メタ物語性とはなかなか聞きなれない言葉ですが、ここでは、一人のキャラクターが、複数の物語を横断して実在し、複数の運命を生きるさまを意味しています。つまり、同じキャラクターが、異なる作品や異なる物語の中に登場するとのことです。小説にしろ、漫画にしろ、登場人物はその存在が一つの物語に閉じ込められているかぎりは、あくまで登場人物でしかなく「キャラクター」になっていない。というのが僕の考えです。

東浩紀.「セカイからもっと近くに(現実から切り離された文学の諸問題)」.東京創元社.2013.p31))

 

日常で使われるキャラが濃い、などの個性の質を表す言葉がキャラクターの本質ではなく、キャラクターとは1つの存在として自立しているという意味だ。この観点からみると、大変興味深い作品が「バイオレンスジャック」だ。そして、永井の作品世界はこの作品を読み解くことで解読ができる。

 

なぜなら「バイオレンスジャック」は、永井のメタ物語性と外傷の反復が一番強くでた作品であるからだ。

 

バイオレンスジャック」は「デビルマン」の終了後すぐに描き始めた作品だ。連載の打ち切りなどで、完結までに18年がかかった超大作である。

 

 物語の最初に、関東地獄地震という超大型地震が起こり、関東が本州から分断される。生き残るために本州を剥き出しにした人間たちは、少ない物資を巡って争い、関東は無法地帯と化す。その関東を暴力によって統治しようとするスラムキングと、彼の野望を阻む謎の大男、バイオレンスジャックの死闘。そして、地獄のような関東をたくましい生き抜く人々が関東に平和を取り戻そうと奮起する一大スペクタクルである。

 

 本作は永井作品のキャラクターが共演する作品だ。同じように大地震にあったキャラクターたちが、元々の作品の役どころを変えて、関東をたくましく生き抜いている。

 

ここで驚くべきことなのは物語の序盤で、

飛鳥了牧村美樹がスラムキングに逆らった見せしめとして「人犬」になって登場するのだ。「人犬」とは人間でありながら、犬のように四つん這いでしか歩けないよう四肢を切断され、自殺できないように舌を抜かれた人間のことである。

バイオレンスジャック」では、スラムキングの残虐さを示すために「人犬」はペットとしてスラムキングに飼われている。ここでは、了と美樹は恋人同士の設定で「人犬」にされたのも美樹がスラムキングに見初められ、それを拒否し2人で脱走したのがきっかけである。

 

 バイオレンスジャック」の最後で、実は了の正体はサタンだと判明される。一度は滅ぼした人類をもう一度、存在させるべきか悩み、自らを封印しながら確かめていたのだ。「バイオレンスジャック」の分断された関東は、サタンが新しく作り直した世界だったのだ。スラムキングも実はサタンの悪の心が実体化した存在であり、作中で登場するハニー軍団(飛鳥了の妹たち)はサタンの心の中の良心であった。サタンは自分が「人犬」になり虐げられることで、明への贖罪をしていたのだ。

 

美樹は物語の終盤の戦闘で死ぬが、その死体は雌犬へと変化する。「バイオレンスジャック」での美樹の姿はサタンが作り出した幻だったのだ。サタンの美樹に対する深層心理が作用してのことだった。

そしてバイオレンスジャックの正体は不動明だった。

 

物語の最後、了はサタンとして復活し、バイオレンスジャックと対決する。2人は死闘の末、和解する。関東にいた人々は守られて、人類は生き延びたのだ。

 

バイオレンスジャック」は永井の極めて高い「キャラクター」の実験場である。永井はキャラクターの本質を見抜き、作品世界を超えて、本来とは違う運命を歩ませている。そして、永井は「性」でしかキャラクターを捉えられない。必然的に、作品世界は拡張し独自の進化を遂げる。

 

  • このことは「バイオレンスジャック」の世界が実は「デビルマン」の後日談だという最後。
  • キャラクターたちですら、容赦無く殺す事態。
  • 作品世界を1人のキャラクターが作った事実から想定できる。そして、時には作者自身もキャラクターとして作品世界に介入している。非常に自由で混沌とした世界だ。*7

     

    そこにはキャラクターの身体に関する幾つかの気になる描写が存在する。

    永井は人間の肉体に非常にこだわる。

    例えば、「バイオレンスジャック」に「マジンガーZ」がキャラクターとして登場する回があった。マジンガーZは超合金で作られたロボットだ。主人公で操縦者の兜甲児も一緒に登場している。だが、何故か、マジンガーZは、「ジム・マジンガ」という盲目の黒人空手家として登場しているのだ。盲目のためマジンガーZのように、甲児に指令をだしてもらって自身と仲間たちを守っていた。

     

    また、別の回では機械の体に人間の脳を移し、その機械が人間の母であった頃の記憶を思いだし、自分の子供を見つけて暴走するシーンがある。キューティーハニーも体内に「空中元素固定装置」を持つアンドロイドだが、見た目は可愛い少女で人間の心を持っている。永井は必ず、機械などの無生物のモチーフに人間の肉体を介入して表象している。

    体に関する話しで、永井自身はこのような発言をしている。

     

    結局、「人間性とはこのひ弱な肉の体ゆえに存在するのではないだろうか。よく、「肉体」は単なる容器であって、魂こそが本質だ」というな、実際は逆なんじゃないか?と僕は思っている。容れ物がひ弱いからこそ、魂が謙虚さや優しさを持っていられるのだ。つまり、人間の本質は「魂」ではなく、このひ弱な「容れ物」にあるのだと思う。これが、ロボットが人間に近づいてもアトムにはならない、いや、人間に近づけば近づくほど、ロボットはアトムから遠くなって、恐ろしい怪物になると思う理由だ。

    永井豪.『デビルマンは誰なのか』.講談社.2004.p70-71) 

     

    マジンガーZも作中で、「神にも悪魔にもなれる機械」といわれている。甲児がマジンガーZに直接乗り込んで、自分の命を賭けて戦うことで、そこに人間性が生まれる。デビルマンも、人間が悪魔の体に変化しながら、人間の心を失わなかった姿だ。

     

    デーモン族は生存競争が激しいため生まれつき天涯孤独で、人間社会で考えられる親といった観念はない。ただ、恋愛感情はある。それも絶対ではなく、恋人が敵になっているということも日常茶飯事だ。だが、アニメのデビルマンに関していえば、美樹に会って初めて恋に落ちたのだ。それは乗り移られる前の明が、美樹に対して、ほのかに想いを寄せていたということでもあり、デビルマンに吸収されてからは、より一層強い感情としてデビルマンの中で作用し、愛という形で現れたのだ。つまり人間の肉体を得たからこそ、人の愛に目覚めることができたという設定だ。言い換えると、キャラクターの魂の、延長戦に肉体は描かれているのだろう。

    永井は、人間とは肉体を持つからこそ、欲望や死をむかえる。その負荷から逃げることは肉体を持つ以上、絶対にできないという意識を強く持つ作家だった。

     

    バイオレンスジャック」の関東は地獄のような場所だ。だが、そんな場所でもキャラクターたちは生きている。死と隣り合わせの日常だからこそ、欲望にまみれ、一生懸命に人間として生きることができる。永井は「バイオレンスジャック」について言及する際、「輪廻転生」と表現している。

     

    デビルマン」で死んだキャラクターが、「バイオレンスジャック」で新しく生まれ変わっているのだと。どんな地獄のような場所でも、キャラクターは肉体を持って生まれた以上、そこを自分のため、愛する者のために天国にしようと努力する。その姿に、私たちは生物として当たり前の欲望に、やっと気づくことができるのだ。

     

    デビルマン」と「ハレンチ学園」は最後に全てが無くなる。だが、それは違った。全ては無くなったが、キャラクターが存在して、彼らが抱えた思いはなくなっていない。

     

    キャラクターたちは元の世界では死んでも、異なる世界で、元の生とは違う運命を歩むことができる。そして、与えられた世界を懸命に生き抜くのだ。

    全てを破壊したからこそ、人は間違いに気づきやり直すことができる。全部が無くなっても、そこには生まれるキャラクターがいる。世界の破滅が既存の常識を破壊して、もう一度、新しい世界を生きることができる。

     

    永井は「バイオレンスジャック」でそのような感覚を持っていたのだろう。バイオレンスジャック」は飛鳥了の贖罪の話しでありながら、永井自身の「デビルマン」のキャラクターたちに対する贖罪の思いも込められていたのだ。

     

    2.「鬼」と「デビルマンレディー

     

    永井の作品シリーズの原点から、物語世界を俯瞰すると永井のリアリティが確かなものとしてみえてくる。それは、永井な初ストーリー漫画「鬼-2889年の反乱-」だ。

     

    「鬼-2889年の反乱-」は間違いなく、永井豪の代表ジャンルであるダークファンタジーの原点になった作品である。

     鬼の内容は、29世紀の地球は化学の進歩が著しく、人類学は「合成人間」を作り出すことに成功した。「合成人間」は人間と何も変わらない。だが、普通の人間と区別を明確にするために角をつけられ、鬼と呼ばれるようになる。

    やがて、その区別が差別に変わり、人間は鬼を徹底的に迫害するようになる。鬼たちは遂に人間への反乱を起こすのだった。主人公のパルマーは鬼である。迫害をされつづけた末に、パルマーはタイムマシンで過去に遡ることを思いつく...

     

    物語の最後は現代への警鐘で終わる。テーマの「差別」は「デビルマン」へ流れ、「鬼」の外見は、後年の「手天童子」、「凄ノ王」などの鬼シリーズへと繋がった。

     

    「差別」を前面に押し出し、最後は善悪の逆転を描いた本作はデビルマンを生み出した大きな土壌と言えるだろう。「鬼」に描かれる時間を遡り、最後にどんでん返しが起こる伏線は「手点童子そして「デビルマンレディー」に繋がる母と子のモチーフとして描かれる。

     

    「手点童子」では、個人の内面が時間的ないし空間的に影響を与え最後は「母と子」の愛に帰結する。「手点童子」は、永井が珍しく明確な終わりを決めて描き上げた作品であった。本作では、肥大化した母の愛が、想像界現実界の橋渡しとなっている。母親の愛が、帰る場所で全ての原点であった本作はデビルマンレディーと不思議な繋がりが見られる。

     

    デビルマンレディーは「バイオレンスジャック」終了後の作品で、当初は「デビルマン」とは別作品として物語を進めていた作品であった。

    だが、永井が物語を進めていくにつれ作品を動かすためには不動明が必要だったことがあり、登場させたところ、物語世界が「デビルマン」の続編としての機能してしまった作品である。

     

    本作では、主人公が不動純という女性だ。純のパートナーとして飛鳥蘭という同性のキャラクターが登場する。純と蘭はサタンの分身であった。サタンの敵「ミカエル」の目を欺くための隠れ蓑として分裂し女性となったのだ。物語の最後には、自分の正体に気づいた蘭が男性の姿に戻り、純とセックスをする。そして純が出産した子供が「不動明」だったのだ。

     

    明を生んだ純は、蘭と合体して元のサタンに戻る。サタンは明にもう一度、自分と戦ってほしいと呼びかける。過去を乗り越えた2人は、宇宙に真の平和を取り戻すために共同戦線を作って物語は終わる。

    結果的に明と了が仲直りをして、倒すべき敵に戦いを挑めたので、明と了にとっては、1番いい結果になれた作品でもあった。

     

    永井は「デビルマン」以後の作品に、デビルマンを連想させるモチーフ、またキャラクターを登場させる傾向がある。デビルマンレディーでは、サタンの両性に踏み込んだ作品となっている。

    デビルマン」は生殖でセカイを繋ごうとし、飛鳥了を登場させたが失敗した。デビルマンレディーでは女性が主人公で、パートナーも女性だ。

    作中では、蘭が純に執着するレズビアンの描写がでてくる。だが、性の問題で考えるとどうしても生殖に繋がらない。ここで、永井はどうしたのか。

     

    永井は「デビルマンレディー」の不能性を母と子の問題で乗り越えたのだ。

     

    デビルマン」では了と明の関係が、了が両性生物であり、性的な意味で明に惹かれたという欲望が描かれている。デビルマンレディー」では「デビルマン」の不能の可能性に明確な答えを出したのだ。

    それは、つまり子供を作るということだ。

     

    了は性的に明に惹かれた。それに母性という答えを永井は出したのだ。デビルマンレディー」で登場する2人の女性に出産という役割を負わせることで、明を自分の肉体から生み出すという母性を了は満たしたのだ。つまり、母性で象徴界を繋いだのだ。

    了は、「バイオレンスジャック」では美樹と恋人になることで、美樹を通じて、明を自分のものにすることができた。

     

    明に対する欲望全てを満たした了は、愛も欲望も全て超えた領域で自分と一緒に戦ってほしいと彼と向き合うことができたのだ。これは、永井の漫画のテーマである「輪廻転生」と言えるのではないか。

     

    また、2002年に永井によって再リメイクされた魔王ダンテは生殖の新たな広がりを見せている。

    魔王ダンテ」はデビルマンの型となった作品であるが、1971年の時点では「僕らマガジン」の休刊により未完に終わってしまった。リメイクされた本作では悪魔対神の戦いで、悪魔が最終的に勝利する。

    ある意味「デビルマン」の始まりのようだ。

     

    魔王ダンテ」では主人公、宇津木涼が魔王ダンテに体を乗っ取られてデビルマンのような、体は悪魔、心は人間の生命体になる。涼自身は人間でありたいと苦悩するが、魔女メドッサと名乗る女性から地球の真実の歴史を知る。つまり神は侵略者であり、その侵略者から地球を守るために戦ったのが悪魔であったこと。神は人間に乗り移り悪魔を迫害し続けた。だが、本当の悪魔こそ神。

    人間こそ悪。

    その事実を思いだした涼=ダンテは神々に戦いを挑む。

     

     

    本作のラストはバッドエンドともとれるが、私はある種の希望を持っている。なぜなら最後に神が、善の心を獲得した描写があり地球を去るのだ。

    神はエネルギー体とされていて、肉体が欲しいから地球を侵略した。先ほど引用した永井の言葉と照らし合わせると、侵略し人間の肉体を手に入れたからこそ善に目覚めることができたのだ。

    つまり神ですら、肉体=キャラクターには及ばない存在なのだ。

     

    神や悪魔、人間だろうと同じ地球の上に存在する以上、等しく同じ命を持っている。「魔王ダンテ」では神を追い出し地球が悪魔の星となる。だが、「魔王ダンテ」は時系列的に「デビルマン」の前身にあたる作品だ。

     

    デビルマンシリーズ」の最終章ともいえる「デビルマンレディー」では母の愛で軋轢を乗り越え、全てを滅ぼそうとする神に対して戦いを挑む。幾多の物語を乗り越えたデビルマンとデーモンが手を取り合う姿が描かれている。

     

     永井作品ではキャラクターに焦点を当てた時のみ、それらの作品が繋がっているのがわかる。

    永井がこれらの作品に込めたリアリティは拡張された生殖=「共生」だったのだろう。永井の「拡張された性」は非常に遠回りだが形を変えて様々な作品に存在する。

     

    そして「拡張された性」こそが、本来の社会の機能(象徴界)に代わり、(現実界)と(想像界)を満たしているのだ。

     

    永井は性の領域でしかキャラクターを捉えることができない。だが、それは人間の欲望の奥底に潜む原点である。彼はセカイ系の現実と想像力が切り離された時代の困難をどう乗り越えたのか。

     

    それは「魔王ダンテ」では共生。「デビルマンレディー」、「手点童子」では人間にとって最初に触れる神、母のモチーフでセカイ系を乗り越えることができたのだ。そして、その「拡張」は広がり続ける。何故なら永井豪の作品世界には豊富な「キャラクターベース」パラレルワールドが存在するからだ。

     

    デビルマンレディー」では、明はサタンに敗れた後に地獄に堕ちている。地獄から現世を覗いた際に、自分が生きていた世界が「デビルマン」という漫画になって存在していることに驚いている。

    これは平行世界が存在する可能性を表している。永井作品のキャラクターは元々の作者が同一という次元に存在していて、その次元から分岐した平行世界にまで行くことに成功している。

     

    上記の描写から、ゼロ年代セカイ系の代表作品、「涼宮ハルヒシリーズ」*8パラレルワールドの多重構造と同じ既視感を感じた。同作品は、セカイ系の次世代の思考「空気系」への転換地点でもある。そして社会を描けない想像力に、パラレルワールドやキャラクターの関係性という決定的な答えをだした作品でもあった。

    永井にとって死ぬことは宇宙の消滅であり、漫画を描くことが死の不条理から逃れる唯一の方法であった。その手段は「拡張された性」「キャラクターデータベースから派生した、広がり続ける並列世界としての手段を獲得したのだ。

     

    要約すると、

    • 永井は自身の「外傷」=人間は肉体を持つ以上、必ず死ぬ。だが、肉体を持つから欲望を持てる。そして、欲望こそが人間性の獲得という意識を強く持っている。
    • その欲望は「拡張」し続ける。キャラクターは肉体を持つ以上、自分たちで能動的に作品世界を広げ続けるからだ。
    • 永井は「全ては無」という答えではなく、「無」の中から生まれてくるキャラクターに答えをだした。「キャラクター」は作品世界を超えて拡張し続ける。たとえ社会が描けなくともその存在が答えだった。
    • 飛鳥は「不能世界」から抜け出すために生まれた。作品はコードで形成されていて、全てが作者のリアリティを反映している表象物と考えると、初め、飛鳥の役割は「明がデビルマンである」事実を知っていることだった。だが、永井の作品世界では欲望が重視され、性が解放されている。親友という関係が、欲望を秘めた性愛に変わっていったのは必然であった。

     

    3章 結論

     

    永井の作品にはエロスと同じくらい死や残虐な描写がある。永井という存在が他の類型の漫画家と一線を画すのはなぜか。それは、永井の描く漫画には性と死が隣り合わせで存在しているのだ。生と死ではなく、人間の欲望である性が生きるという行為の代替物として機能している。

     

    永井の世界では、欲望がむき出しになる。常識やモラルで、押さえつけられている人間の欲望が渦を巻く混沌した世界だ。これは全作品の根本部分に見られる。つまり、性と死がデータベースとして機能している。そこを土台に作品世界を構成するコードがそれぞれ機能しているのだ。

     

    それゆえ強姦や強盗、同性愛、近親愛などのありとあらゆるタブーが存在する。絶対的な死ですらそれらの欲望と相対的な位置に並列している。惨たらしく、残酷だが、私たちがそこから目を離せないのはそこにある欲望が自分の内にも内包されていることを知っているからだ。永井が世界を描くのに必要としていたのは、私たちが成長するにつれ抑え込まれた欲望なのだ。これらのベクトルから導きだされたのは永井の漫画を描くきっかけだ。

     

    「自分が生きた証を残したかった」

    「死ぬことは宇宙の消滅」

     

    どんな無様な形でもいいから、人々の記憶に残りたいということは、肉体の死を消滅の定義とせずに、人々から忘れられた時を消滅と捉えているといえる。その代わりに漫画を描いて残す。

     

    このことはある意味、生殖と言えるのではないか?

    作品はそれ故、欲望を包み隠すことなく存在する。キャラクターの死でさえ永井の世界では欲望の1つに過ぎないからだ。なぜなら、作品世界が完全に終結するときは、人々の記憶から忘れられたときだからだ。それ故、作品世界は拡張し展開し続ける。形が変わろうと「存在したこと」が何よりも最優先するべきことだからだ。

     

    社会はかつてのような絶対的な機能を持たない。

    あまりにもたくさんの情報に溢れ、セカイと切り離された時代を生きる現代の私たちは、いつかの「透明な膜の中にいる」永井と同じ感覚を共有している。そして、その断絶に対し永井は「生殖」という選択をした。「生殖」は「デビルマン」では無に終わり、セカイは元どおりの何もない空間へ戻った。

    だが、永井は無の中に存在するキャラクター、その虚構の力を信じてキャラクターをばら撒き続けた。

    キャラクターは拡散し、展開し、欲望の限り生き続ける。時には母の愛に辿り着き、共生への可能性を幾いながら。

     

    永井はなぜ、虚構の存在を信じるのだろうか。

    キャラクターが死に絶え、セカイが機能しなくとも、それらが存在しなかったということには決してならない。なぜなら、そのキャラクターが存在したという事実を知る私たちが存在するからだ。逆説的にキャラクターは私たちの生を肯定する。そして、私たちは自分の存在を、その欲望を確認することができるのだ。

     

    セカイがあまりにも複雑になったら、全てを無にせよ。そして、無の中から生まれたキャラクターを欲望の赴くまま自由に拡散させ続けよ。その存在が自分の存在を肯定するこれが、永井がセカイ系に対してだした答えだ。

     

    飛鳥了は何故、不動明を愛したのか。

    愛さざるを得なかったからだ。

    飛鳥了という虚構のキャラクターがデビルマンの世界に存在するには、デビルマンになった明の苦しみを知る存在が必要だったからだ。永井豪の作品世界では拡散され、存在することにこそ意味がある。

     

    それ故、不能性に留まり続けることはできない。永井は了が明と関わりを持った時点で、性の領域でしかリアリティを見出すことができなかった。必然的に明を愛さざるを得なかったのだ。よって、飛鳥了の愛は、不動明と次の世界に共に生きるための生殖の意味の愛である。

    そして、その愛は作品世界が拡散されるごとに、形を変え、作品世界を歪ませ、なおも深く不動明にむけられる究極の、純愛でもあった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    謝辞

    本文は、東浩紀先生が書かれた「セカイからもっと近くに(現実から切り離された文学の諸問題)」と斎藤環先生が書かれた「戦闘美少女の精神分析」を読み、インスピレーションを受けて「デビルマン」を研究したものです。

    本文の文の組み立て方は概ね、上記の御著書を模倣しております。この場をかりて、心から深く御礼申し上げます。

    また引用文献、参考文献を書かれた全ての方に感謝の意を表します。

     

    引用文献

     

    参考文献

     

    注釈

    1ー9、全てWikipedia:フリー百科事典から引用

     

    何かございましたら、感想どうぞ↓

    https://forms.gle/gstV32F4rCZ8VcnS7

     

     

     

    *1:ホモソーシャル 

    同性間で生まれる恋愛や性的関係を持たない結びつき

    *2:エヴァンゲリオン  

    言わずとしれた庵野秀明監督によるSFアニメ作品。1995年から1996年にかけてテレビ東京系列他で放送された。斬新なストーリーが物議を醸し、爆発的なアニメブームのきっかけになった。 

    *3:星の声

    新海誠監督の短編アニメーション映画。2002年公開。携帯電話のメールをモチーフに宇宙に旅立った少女と、地球に残った少年の遠距離恋愛を描く。

    *4:最終兵器彼女

    高橋しんによるまんが作品。2000-2001まで連載。北海道で暮らす平凡な高校生カップル、シュウジとチセ。国家により最終兵器になったチセは戦争が激化するにつれて人間とかけ離れた存在となっていく。それでも関係を続ける2人と、戦禍により壊れていく日常を描いた恋愛漫画

    *5:永井豪の「デビルマン」以後の作品では、「デビルマン」と同じような作品の終わり方や「デビルマン」のキャラクターが登場して、元の作品自体が「デビルマン」の続編として機能してしまうパターンが多い。例を挙げると「バイオレンスジャック」、「デビルマンレディー」が挙げられる。

    *6:デビルマン」の漫画とアニメは、元々「デビルマン」の前に描いた作品「魔王ダンテ」のアニメ化を元に「変身ヒーローもの」として企画された。アニメは放送時間内で、物語のカタルシスを描かなくてはいけないので展開を少なくするために、主人公を人間ではなくデーモンとしたとのこと。年齢層が低い視聴者を考え、毎回読み切り型式になったとのこと。ここでの共通の基本設定はアニメの初期設定と捉えている

    *7:CBキャラ永井豪ワールド

永井豪作品を原作としたOVAシリーズ。永井豪原作のキャラクター達をSD化したアニメーション。ギャグとパロディをジャンルとしているが、ストーリー後半に進むにつれシリアスな内容となっていく。

*8:涼宮ハルヒシリーズ

涼宮ハルヒの憂鬱」をはじめとする、谷川流によるライトノベルシリーズ。主人公キョンと変わり者の美少女、涼宮ハルヒ、そして彼らが立ち上げたSOS団の団員と共に、ハルヒが引き起こす様々な騒動に付き合ったりする日々を描く。